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扇が一つ、
友の悲しみが
優しい優しい終わり

 

実存、すなわち死に直面する中で意義を求める最後の比喩は“恵み”です。統計的にエイズの大流行を認めることは、“プラグを抜く”こととアザセタの絵のような孤立感や非人間化や過酷さに比べて、人生とはあなたはだれであるか、世界とは一体何か、そしてその中であなたの位置はどこかを求めていく中での必然的な孤独感と自己変革的可能性の一つの認識です。死の作業は、肯定すること、癒されること、その人の深さや全体性を見出すことです。それは全人的な意味で統一体とするためです。
リビングウイルは死の自然性と、医師、看護婦、患者の関係の神聖さを認識し、この時期の医学の人間的光輝の役割と位置とを思い起こさせます。水ももらさない契約書でも、法律で動きがとれないようなものでなくても、はじめの書類は契約の精神に根差していました。
もし、私が自分の将来についてもはや決断できない時がきたら、この手紙を私の遺言書としてください。もし肉体的・精神的、あるいは霊的能力から回復の望みがないなら、私(名前)は死ねるように、そして人工的方法で生きられるようにしないようお願いします。
死は誕生、成長、成熟、そして高齢になることと同じように、現実として確実なものです。私は自分が悪化すること、依存すること、そして望みのない痛みなどの侮辱を恐れるような恐れは死に対しではありません。私は、薬類は、たとえ死の瞬間を早めるにしても、末期的苦しみのために慈悲深く使うよう求めます。
☆死の範囲−生命の質
インドの詩人タゴール(Tagare,1937)は、「死は火を消すのではなくランプを取りはずすのです。なぜなら夜明けがきたからです」と言っています。人気のある20世紀のアメリカの喜劇役者でありかつ哲学者であるウッディ・アレン(Woody Allenn)は死を恐れているのではなく、死がきたとき自分がそこにいたくないだけだといっています。知らない夜明けの来訪を覆う実存的不安、それは死後の生命がないかもしれないという恐れ、またあったとしてもだれ一人としてどこにあるかを知らないという不安です。その人の宗教的・霊的・文化的信念がその人の死の見方を決めます。
生命の質は、生命の短さ、その人の行動を忘れないという叫びです。多くの文化は“生命の質”を私たちが本来のあるべき人間性よりも低いことを思い起こさせるシンボルとして用いています。中世のキリスト教の伝統は死後の肉体の腐敗と悪臭に強調点をおきました。多くの文化の不吉な冷厳な刈手、あるいはもっと灰色に風化してそのへんに置かれている頭蓋骨と人間の骨、あるいは無益に生きていることなどは最も悪い罪なのです。「地獄太夫の合同の図」(1890)の中で、遊郭の有名な女性が壮大な娼婦の行列のひと時を瞑想しています。遊歩する人々の骸骨だけではなく、実際の生活では男の付き添いの持つ傘や密会の遊郭の家の名が描かれている紙の提灯でさえ単なる骨格であります。ヴァニタス(Vanitas)は東洋の文化ではあまり語られないようですが、私たちは地獄太夫のモラルについて考えてみました。同様に寺岡正美の「エイズ・シリーズ」からですが、京都の旅館にセットされたステージのシーンが入れ墨をしたブロンドの女性と巨大なヘビ(エイズと性の象徴)にその息の根を止めるために巨大なコンドームをつけている侍を描いています。このシー

 

 

 

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